35 昔の学校と子供たち

35 昔の学校と子供たち

 明治五年になると義務教育が始まりました。それまで寺子屋で学んでいた子供だけでなく、全部の子供たちが同じように学校教育を受けられるようになったのです。そして、今までの寺子屋が仮校舎となって、小禎学舎(しょうてい 石井以豆美家 いづみ)、汎衆学舎(はんしゅう 太子堂)、厳玉学舎(げんぎょく 雲性寺)、竭力学舎(かつりき 円乗院)、研精学舎(けんせい 三光院)の五つの小学校が誕生しました。

 明治十年、学校は合併されて三校になり、その後、昇隆学校(しょうりゅう)が第一、奈良橋学校が第二、高狭学校(たかさ)が第三村山小学校となりました。

 小学校は、始め三年制でしたが、やがて四年制になり明治四十年、六年制となりました。そして、この三校は大正十二年三月、奈良橋に新校舎が完成して合併され、現在の第一小学校となったのです。

 さて、学校教育が受けられるようになりましたが、男子にくらべ女子の入学は少かったようです。また、せっかく入った学校も、途中でやめて家の仕事をしたり、年季奉公に行く子供もかなりいたそうです。

「先生はおそろしく尊い人で、つかまることもできなかった」

と話されたのは、明治生れの岸さんです。当時の先生たちは皆ムチを持ち、たいへんきびしく威厳があったようです。

 第一尋常小学校は芋窪の生活改善センターの所にありました。古い木造の校舎で、芋窪と蔵敷の子供たちが通いました。一クラスは三十人ほど、四教室ありました。その頃の校長、石井以豆美先生はひげを生やされ、年中"篠ン棒"を持ち、校長先生自ら授業をされました。今年八十六歳の木村さんは、小学生の頃、自習時間に遊んでいてそのムチでぶたれたことがあったうです。

 運動場は、豊鹿島神社の裏山の辺で、ここは子供たちにとって格好の遊び場、毎日にぎやかな声がひびいていました。

 第二小学校は雲性寺にありました。なにしろ校舎がせまく、教室は一つでした。お寺の大きな部屋が教室で、中央に黒板を背中合せにして区切り、生徒は学年別の二つに分かれました。二人の先生が同時に授業を行ないますと、間仕切がありませんので互の声がつつ抜けです。
冬は毎朝、薪を一本つつ学校に持ち寄り、大きな角火鉢で燃やしながら勉強しました。

 第三小学校は狭山公民館のところにあって、四教室でした。生徒がいっぱいになったので墓地の霊性庵も教定(室)に使われました。しかしそこは、床のすき間から風が吹き上げ、冬の寒さは格別でした。雪の降るような寒い日には炭を起こしてあたりますが、火のそばは、いつも男子に占領されてしまい、女子はあたれませんでした。休み時間になると子供たちが墓場の中を飛んで廻り、そのあげく、土葬のくぼみに足を突込んでしまったこともありました。

 今は貯水池になっていますが、当時、石川部落から学校に通った子供たちは一尺(約三○センチ)ほどの大雪が降ると半鐘を鳴らして雪かきをしました。自分の領分だけで、他はまだ雪が積っています。そこで男子は、松の木で竹馬を作りそれに乗って学校に行きました。女子はわら草履です。どちらも素足で行き、足袋は学校に着いてからはきました。

 欠席もなく、成績優秀な生徒に男女二人つつ賞状が与えられました。賞状は郡役所までもらいに行くのです。親にとってもそれは大変名誉なことですから、喜んでその日のために着物を作ってあげました。

 大正の頃、女子はおかっぱ頭か、三つ編にしていました。男子は夏はランニングで他の季節は、男女とも木綿の着物に下駄か草履をはき、粉袋を開いた風呂敷には弁当や学校の道具をくるみました。弁当は大ていふかした"さつま芋"です。けれども子供たちは何のくったくもありません。さつま芋の弁当を持って元気よく学校に通いました。

 丁度その頃、野球を教えて下さったのは、第三小学校の石井梅光先生です。まだ野球もはしりのころ、子供たちは始めてみるスポーツに目をかがやかせました。ところが、学校の周囲には、からたち"のくね(かきね)があって、ホームランを打つと球がトゲに刺さりパンクしてしまいました。

 農繁期には、お茶休み、蚕休みが一週間くらいづつありました。子供たちは朝早く起きてお茶つみをしたり、まゆかきをしたりします。よその家にも行きました。お駄賃は、どちらも一貫目(三・八キログラム)でだいたい十銭でした。おやつはさつま芋か、さつま団子で、終りの日に、黄名粉のついた「ぼたもち」が出るので、子供たちは喜びました。

 親が忙がしかったので、子供たちも一生懸命手伝いました。子守はもちろんのこと、井戸から風呂に手桶で水を入れるのも子供たちの仕事でした。

 学校の帰りに道草して、どどめ(桑の実)を取って食べたり、夏は川で泳ぎ、魚やホタルをとり、冬は凧揚げを夢中でしました。山も川も、四季折りおりに楽しいことがいっぱいありました。

内堀先生のこと
『内堀大一郎先生は、四十六年間大和村の教育に尽くされた立派な教育家で、大正のはじめまで第三小学校の校長先生でした。真っ白なひげを生やされた先生は、きびしいが慈愛の深い先生で、叱る時にもこく(たたく)ようなことはなく手のひらで叩かれたそうです。子供たちに心から慕われ、その教えはいつまでも生きつづけています。先生を偲び、亡くなられた後、碑が立てられ現在狭山神社の境内にあります。』
(p78~81)